昭和54年11月11日 朝の御理解
御理解 第88節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
人間には喜怒哀楽というのが誰しもございます。それは、だから当然と言えば当然ですけども、修養をする修行をさせてもらう。そこからそれをそのまま出さんですむような稽古というものが段々出来るようになるものだ、と。人物が段々大きくなってくる。人物が出来てくるとそれを例え心にどう思うておっても、顔に出さんですむような。事柄というものが問題が、そこから解決の糸口を見出す事が出来るし、また円満なおかげを頂いていく事が出来る、というこれは信心のない者でもやっぱりそうですよね。
ですからこれは信心をあの教えとして頂くと、そういう一般的な考え方から、も少しこれを深めていかなければいけないと思うです。子供は親の鏡というふうに言われます。これは子供だけの事ではありません。もう一切がです。結局天地自然の働きというものは、不合理な事がない必ず理にあっておる。例えば難儀の場合であっても、その難儀はその人に釣り合うておるものである。ま主人が家内を見て、お多福さんに見える時には、自分がひょっとこの自覚に立てと言われてます。
例えば子供の中に、成程屑の子がおれば可愛いのが親心ですけれども、その屑の子のと思われるような不幸な場合であっても、それは自分の内容に、その屑の子的なものがあるんだとま悟るという子とであります。例えば教会長が、はぁうちの教徒会長はどうの、うちの総代達は出来んと、例えばいうような事があってはならない。信徒会長がどういうなら、まいうならつまらんであっても。そのつまらんというのは教会長自身の内容にあるんだと、いわゆる悟るべきですね。
合楽に御縁を頂いてなら私を親先生とこう言うて下さる方達は、もうそこに一つの親子という縁。信心の上での親子になるのですから、その子供が行き届かんのよくないの悪いのと例えば言う事は、いうならば自分で自分の内容を曝け出してる様なものであってね。それを見るにつけ又は聞くにつけて自分自身を、それを鏡と思うて進めていく、という事に徹するという事が信心です。この生き方を本当に身に付けたら、御理解88節じゃないですけれども、もう必ず広がりに広がっていくおかげが受けられます。
だから信心とはやはり徹する事です。子供達に例えば言う事を聞かん子があるとか、親の目から見て、いうなら目に余るような事もありますけれどもね。それを子供非とせずに親の非とする。自分の改まっていく資にする。それを鏡と思う。自分の姿がそこにそう映っておるのだと。もうこれに徹していくという生き方を身に付けたら、も必ず広がりに広がっていく。繁盛に繁盛のおかげを、間違いなしと私は思います。
ここで、ここで黙って治めるという事が言われるのは、この御理解から頂いたものです。治めるという字が、さんずい偏にム、口、と書いてある。自然に起きてくる事を黙って合掌して受けていくと。それは黙って受けていくという、その理というものはです。それはあなたの内容にあるものだから、黙って治められるのです。困った事が起こってくる。その困った事を、んならば受けなければ、ならないのは私自身なのですから。
だから私の内容にその困った事の起こってくる元というのは、あるのだという頂き方です。ただ黙って治めるじゃない。それは自分の鏡なのだから、自分の心の姿がそこにそのように映っておるのであるから。それを直していき正していくより、以外にはないと信じ思い込むことだと思う。そこには、どうですか皆さん黙って治める事が出来るでしょう。だまっ治めるという事は皆さんも体験をなさっておられる事と思いますけども、その結果が素晴らしいです。
いいやこれは言うとかな分からん、という事は絶対ないです、ね。いよいよ黙って治められるひとつ信心を、いうならそういう生き方を身に付けたい。それには本当な事が分からなければいけない。本当な事というのはね。そこに起きてくる問題も、そこにある人間関係も、そこにある家族親子夫婦の関係もです。鏡に映っておる姿であるという事です。そこんところを甘木の初代なんかは、[われよしと思う心を]、と仰っておられます。自分がよいと思うから文句言わんならん。人が悪いとこう思っておる。
その悪いもとはこちら自身にあるのだと。そこで我よしと思う心を仇としてと。もう仇のように思う。自分がよいと思う心を仇としてね。日毎夜毎に信心をその気持で進めていけと。われよしと思う心を仇として日毎夜毎に戦いていけ、というふうに教えておられる。自分という者をいうならば殺していく、と言った様なものではなくて、そこに自分の姿があるのだなという頂き方。
もう一番間違いないこれは頂き方です。絶対な頂き方です。ね。ですから必ず御神意にかなう御神慮に適うから、いわゆる八十八節です。広がりに広がっていくおかげ。そこでならそれを脇から見たら、本当に人物が大きい、豊かな心の人だという事になりましょう。だからおかげも、また大きうなる豊かにもなって行こう、というものです。その事実、その本当な事を分からしてもろうて、行の上に表わしていく。
日常生活の上に表わしていく。もう親先生はあなたは本当にいつもニコニコとして腹どん立てなさる事はないでしょうとある人がいう。おかげを頂いてこの頃ならどんな場合であってもニコニコしてとしておれる。かと思うとある人がお取次を頂く時に、親先生はニコニコとばっかりしてござらん。今日は腹かいてござるとやろか機嫌の悪いとやろか、というような時もある。そうするとお取次を頂く方の人がです。はぁ今日はシャンとせないけんなぁと。
何が腹が立つならあげん顔しとらなんだろうか、というふうに思わせない。親先生が今日は機嫌が悪い。これはこちらが分からなければいけない事だな、と御信者さんの、まぁここで、信心の稽古を本気でした人は、皆そういうふうに思われるようです。ですから親が子を思う時に、その親の子供の姿を見てそれを自分の鏡とするように、子供もまた親を見た時に、そこに自分の姿を自分がはぁ今日はこんな事、おろよい事を思うとるから親先生が今日は機嫌が悪いんだなぁと。
ある時には私のいうならば、いわばいつもニコニコとではなくて、それこそ厳しいもう傍に寄付かれん位に厳しい顔をしておる時が、まぁと致しましてもです。それを皆さんがです。自分の心の上に頂かしてもろうて、改まる事に努めて行ったら有難い。これは親が子を主人が家内をというだけではない。家内もいうならばお父さんがひょっとこに見えるならば、自分自身がお多福さんである自覚を、持たなきゃならないという事なんです。そこからねいよいよいうならば黙って治める、というおかげが頂かれると思うです。ね。
どうぞ。